奥出雲町の物語
良質な鉄を生産できる、磁鉱鉄を含む花崗岩の大地が広がる奥出雲。この岩石は、ごつごつとした見た目とはうらはらに風化しやすく、やがて真砂(まさご)という砂になります。この砂の中に含まれる砂鉄を採取するため、この地では「鉄穴流し(かんなながし)」がおこなわれてきました。
それは風化が進んだ花崗岩の山際に水路を引き、岩肌を崩して土砂を水路に流し、いくつかの人工の池を通過させる過程で、重い砂鉄のみ沈殿させて採取するという、地形の変化を伴う大がかりな手法。鉄の生産地として日本の文明を支えた奥出雲では、この鉄穴流しが数百年にわたっておこなわれ、山が削られていきました。
世界中の多くの鉱山で、この開削跡の放置が問題となっていますが、奥出雲に荒地はひとつもありません。あるのは、ぽっかり視界の開けたなだらかな斜面に広がる棚田。そう、これこそが奥出雲の誇り。先人たちの手で美しく整えられ、あらたな命を注がれた砂鉄採取跡の田んぼです。
青田風、金風、色なき風、と田畑をわたる風が四季を知らせてくれるほど、広大な農地が広がる奥出雲ですが、その3分の1は鉄穴流し跡に拓かれたものです。鉄師卜蔵(ぼくら)家が本拠を置いていた追谷集落や、鉄師絲原(いとはら)家が開拓し、「棚田百景」にも選ばれた「大原新田」のある旭集落など、山間ごとに表情の違う棚田の景観は見もの。砂鉄を採取するために引かれた水路も農業用水としてそのまま使われており、奥出雲の農業は、たたらによってもたらされたといっても過言ではありません。
加えて、奥出雲にはもうひとつ、先人の思いが込められた景観があります。
福頼集落あたりでよく見かける、田んぼの中にひょっこりあらわれる小さな山。これは「鉄穴残丘」と呼ばれ、ここにはもともとお墓や御神木があり、鉄穴流しの際、削らずに残ったもの。祖先を敬い、神を畏れ、自然とともに生きた先人たち。そんなすばらしい財産を汚さぬよう、ていねいに畔まで草刈りをし、耕作放棄地を一枚もつくらない後人たち。時代を紡ぐお百姓さんの心意気が、「奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観」として国の重要文化的景観に選ばれた背景にあります。
この、たたらの土壌で育てられた仁多米は「東のコシヒカリ、西の仁多米」といわれるくらい、食通もうならせる、おいしいさだと評判です。「西の米どころ」として名を馳せるほど「鉄の産地」から「お米の産地」へと変貌を遂げたのには、この地が農業に適した環境だったことも幸いしています。
まず、鉄分が含まれたミネラルたっぷりの土壌だということ。次に、鉄穴流し跡の棚田は南斜面が多く日当たりがいいこと。そして、西日本でも有数の多雨多雪地帯であり、地中にしみ込み濾過された清らかな天然水にもミネラルが含まれていること。さらに盆地だからこその寒暖差が旨味を生み出すこと。これらの好条件が、お米をはじめ、舞茸やしいたけなど、おいしい産物を生みました。
また、鉄の運搬にも欠かせなかったという理由から、先祖代々牛を飼っているところが多く、糞を肥料にし、稲わらを餌にするという資源循環型農業を実践している農家がいるのも、奥出雲らしい農業のかたち。鉄穴流しの跡が農地に循環されたように、環境に配慮した持続性の高い農業体系が、奥出雲の地力を維持しています。
そしてもうひとつ、忘れてならぬ出雲名物といえば……そば!
ソバの実を皮ごと石臼で挽くため、そばの色が黒っぽく見え、香りが強いのが特徴。また、一段目の割子にだし汁を注いで食し、そこに残っただし汁を二段目に移すというふうに、だし汁を使いまわしながら食べる「割子そば」や、ゆでたそばとゆで汁をそのまま器に入れて、つゆや薬味で自分で味をつけて食べる「釜揚げ」など、出雲独自の食べ方が、観光客に人気です。
奥出雲はこれらの元となるそばの実の名産地。そばは荒野でも育てやすい作物で、そばを栽培した後にそこの土地を耕すと、そばが土の中で微生物に分解され、栄養となり土が肥えます。そのため奥出雲では、鉄穴流しの跡や森林伐採後の跡地を焼畑して、稲作の前に、まずはそばを栽培していました。その中で根づいたのが「横田小そば」という在来種です。
香り、甘味、粘りの強いおいしいそばの実で、各家庭で少しずつ栽培されていましたが、小粒のために収穫量が少なく、次第に収穫量の多い品種に主役をとって変わられ、姿を消してしまいました。が、地域振興の取り組みで「横田小そば」の復活プロジェクトが始動し、紆余曲折を経て、見事に復活! プロジェクトに関わったみんなの努力が実を結んだ、町自慢のそばなのです。
町内にある12軒のそば店では、この「横田小そば」をはじめ、奥出雲産のそばを味わえます。また、毎年紅葉の時期に開催する「奥出雲そば街道 新そば祭り」では、そば打ちグループによる実演販売や横田地域の各そば店舗で収穫したばかりの新そばが堪能できます。